昭和四十八年七月二十六日 御神訓
「一、人の不行状を見てわが身の不行状になること。」
此処のところ人の不信心になって行く姿を見て、自分までも不信心になって行くことと云う風に聞いて頂きたいと思う。人間は妙なもので熱心な人がありますと熱心な人について行こう、見習おうと云う、いわば何と申しましょうかね、負けてはならんと云ったものもありましょうし、やっぱり手本にしてと云うこともありましょう。 あの人が朝参りしよんなさるなら私もいっちょ朝参りさせて貰おうと云った様な弾みが付くもんですけれども、なら今迄朝参りをしておった方が朝参りを例えば止めると致しますとね、あげん熱心な人でも朝参りをしなさらんけん、私どんも時々でよかろうと云った様なね、考え方をえてしてするものです。
これはもう、修行生の方達の場合でもそうです。一人が生き生きとした修行をし出しますとね、皆がそれにつれて連れないます。
けども、反対のことになりますとですね、次第に堕落して仕舞います。自ら進んでと云う修行をしなくなる様な傾向がやっぱり強いです。そういうのなんかは、人の不行状を見てわが身の不行状になっておる。人の不信心を見て自分も一緒に不信心者になって行くと云う訳ですから、本当に人の手本になる信心をさして頂くことが大切です。
ですから、私共が信心をさして頂いて、こういう在り方こそおかげを受けるんだと云う生き方をですね、何時の場合でも採らせて頂くという心が第一必要です。云うなら必ずおかげの受けられる生き方をとって行けとこういう訳です。そこんところをです、何かにかまけたり致しますと自然おかげの受けられない方にいつの間にかだらだらと楽な方へ楽な方へと信心の徳を受けることが出来ない方へ落ちて行くと云うことのない様にと云うのです。
先日から福岡の高橋さんお届けの中に今度あちらの株式会社三福ずしと云う会社組織になるわけです。ですから、店主であるところの高橋さんも、やはり給料取りになる訳です。それで今迄は私の思う存分の事が出来ておった。わが好かごとお金もなりよった。だからお供えもこうと決めたら決めただけの事が次々と出来ておりましたけれども、今度給料になりますとその中から生活もして行かんならん、と云うと今迄の様なことが出来ん様になりますが、何かよい有難い行き方はないだろうかと云うお届けがありました。
それで私が申しました。お供えというもの、信心と云うものはね、例えて云うと、お供えは決めるな、細くするなと云う意味の事を頂いた事があるのです。もうこうと決めるねと、そして決して今迄百円なら百円のお供えしよったものが、五十円に減す様なことは決してするなと。もうそれから上には昇ってもと云う様な御教えを頂いたことがあります。だから、そういう生き方がおかげを頂いて行く生き方なのです。
そういう生き方が徳を受けて行く生き方なんです。だから給料制度になったからこうと、信心と云うものは特にお供えと云うものは、これは身を削ってからの事なんだから、自分がタバコならタバコ喫みよったらタバコも止めてお酒呑みよった者はお酒を少なくして、またはもう今迄こうして着物作りよった者はもう作り止めて、云うならばその身を削ってのものが一番尊いとされておる。いわゆる身を削り心を削りしながら奉仕が出来、お供えが出来、信心が出来ると云うこの生き方でなければです、今日の御理解に当てはまらない。
それで私が申しました。あちらの奥さんも今度会社組織になりますから、上の専務さんが何かと云った役にもなられる訳でしょう。だから家内にもいっちょそのことを含めなさいと申しました。
今まではこうこうと云うことが出来よったけれども、こんど給料になったから出来んから、だからお前一人の給料を犠牲にして呉れ、私の給料からも、出来るだけの事はさして貰うけれども、お前の給料をもう無いものと思うて呉れ。今までお供えしよったのを少なくする訳にはいかんと私は思うから、お前のここんところを信心にして呉れかと家内に頼みなさいと私がほんにそういう生き方もありましたねと云うことでございましたがです。
それはそうです、神様はちゃんとご承知ですからね。
貴方が幾ら幾らの給料を取りよる。幾ら幾らの生活費が要る。だから神様はそう無理なことはおっしゃいませんよと、云うてもよいわけです。けどその生き方はおかげを受けられない生き方なんです。お徳を受けられない生き方なんです。ですから私の給料は生活費にお前に渡すからお前の給料だけは当てにして呉れるな。これだけはお供えにして頂くぞと云う風な生き方はどうだろうかねとこういう風なんです。
まあ高橋さんの事ばっかりになりますけども、高橋さんは私が朝出るときは殆どここへ見えとります。必ず四時の御祈念を頂かれる。もし四時の御祈念が頂かれないときには、その日一日は断食をされます。五時の御祈念に間に合う様なことがあるわけです。今のもう九州中ですね、今度宮崎に又支店が出来ます。長崎、福岡、久留米は勿論、北九州と云う風にですね、手を広げられて行くのですから、もうそれは或時は不眠不休の様な時があるのです。時には社長として回らなければなりません。いろんな指図もしなければならない。まあ色々なことが、けれどもですね、そういう高橋さんの信心振りを見ておりますとです、とてもあげな真似はでけんと云うて、かえっておかげ落とす人もありましょう。ね、あんまり素晴らしいから。 けれどもですね。大概の・・殆どの人はとてもあげな真似は出来んけれども、ああ云う信心しよんなさる方すらある。福岡辺からすら朝の御祈念と云うても、四時の御祈念には着いてござると云う様な生き方の人すらあるのだから、私共のこの位の修行は当り前と云う様な元気な心が湧いて來る。
これは人の不行状でなくて、人の良い信心を見て良い信心が出来る。
だからそういう人の手本になる様な信心をお互いさして頂きゃなりませんけれどもです、中にそうしたおかげを落として行く人があるとです、あげん熱心な人達が朝参りを止めなさったけんで、平信者で朝参りすることは要るめと云う考え方がですね、暗に心の中に動いたらもうそれはおかげの受けられない生き方をとろうとしておるのであり、それではもう絶対徳を受けて行くことにはならないと云うこと。それこそ、お供えは決めるな、細めるな。
だからお参りは決めるな、細めるなと云ってもいいわけです。
今は朝参りだけしかしちょらんけれども、又昼の御祈念に参る様になるかも知れない。夜の御祈念にお参りになるかも知れん。
もう一日合楽で御用頂いて、もうそれに専念することが出来るようになるかも知れんのですから、決めることは要りません。又細めてもなりません。
もうとにかく押しの一手前に前進前進前進するより外にないと云う生き方こそがです、おかげを受ける生き方なんです。
又神様もそういう生き方を求めておられますから、そういう働きもして下さるです。
例えば、吉井の熊谷さんの場合なんか、もう息子が大学受験を済むまではお参りします。朝参りを続けますちゅうことだった。だから神様も出来るだけ余計参らしたがよかけんと三年もかかった、ね。 ところがもう、二年目三年目になってきたら、とてもとても朝参りは止められんと云うところになってきた。どころではない、夜の御祈念にももう七十幾つのおばあさんが毎日毎日今はね、朝昼晩ね、昼の修行にも参って來よんなさいます。もう絶対信心を細めなさらんです。
例えば、月次祭のお供えならお供えの事を心にこうと決められたら、それが段々立派になって行くばっかりです、内容が。そういう生き方なんです。ですから、今日はそれとは反対に反対におかげを落として行く様な人。人の不行状と云うところを、人の不信心を見て自分も不信心になってはならぬと云う風に頂いて行きたい。
だからおかげの頂けれる生き方をとらなければなりません。力をいよいよ受けて行くことの受ける方へとらせて、しかもそれが段々段々身に付いて來るのですからそれが有難いことになって來るのです。
一日の中に例えば、神様に通っておると云うこと。お礼を申し上げとらん時にはお詫びさして貰いよる。お詫びさして貰いよらん時には一心に神を金光様金光様とお願いさして貰いよって、そういう内容でなけらねばならない。信心はでないと、今云う様に人の不行状を見て我が身の不行状になる様なことになりかねないのです。
例えば、問題が起きて信心が飛躍する人と、問題のために挫折する人、又は信心が落ちる人があります。それではおかげの受けられない方になって行く訳です。
もう二十年も前のことでした。お食事させて、もう準備が出来てお食事を前の食膳におご馳走がいっぱいこう出ておりました。ところが見たばっかりでお腹がいっぱいになった様で食欲を感じない。そういう時には仲々有難いものが生まれて参りませんよ。
だからこういう事では相済まんと思わせて頂いてから、ふと思ったこと、つい一年前二年前はです、もう親と子にそれはお粥さんでもよい腹一杯食べさせられたら、私は一生お腹がすかすか、私はその時分一食修行でしたからね。修行の時代、しかもお粥さん一椀でした。それこそ押せば倒れる様な線香の様に痩せた状態時です。何年間ですから、ですから子供と親に腹一杯何でもよい、それは芋でも、かぼちゃでもよい、お粥さんでもよい。腹一杯食べさせたらもうそれで云うことはないと思うとった。そのときのこと、つい一年二年前はああであったのに、もう一年後二年後にはこんなおかげを頂いて目の前には百味の御食が並べられるくらいにおかげを頂いとる。本当に神様おかげを頂きまして、今私はおご馳走を見て食べたいとも思わない位におかげを頂いとりますと御礼を申し上げたら涙がこぼれる位有難くなった、ね。だからそういう生き方がおかげを受ける生き方なんです。こげなもんが食べられるか、もう今日私は食べんぞと云うだけではなくてです、つい一年前二年前はあ云う粗食の中でです、ああ云ういや自分が腹一杯食べよう等とはさらさら思わない。夢思わない。只親と子に腹一杯食べさせるおかげが頂けたら、もうそれで云うことはないと云うておった時代の事を思うたらです、これは今でもそうです。今日は先生何もないですよと云う程有難いです。有難いですね。通るとこ通ってると云うことは有難いです。
もう本当にこれだけのおご馳走が出とりますけども、食欲が起こらん程に現在の私はおかげを頂いとりますと、御礼を申し上げる。御礼を申し上げたら有難涙がこぼれて來る程であった。
おかげを頂いたもんだなあと、そういう私はどんな場合でもどんな時でもです、おかげの頂けれる心を追求していかなきゃいかん。、捜し求めていかなきゃいかん。こういう心の状態ではおかげが受けられないと思うたらその心をどういう風な思い方、又は思い変えとも仰る。思い変えをさして頂いたら心が有難うなるだろうかと云う風に信心はいつも有難くなると云う風につとめさせて頂かなけりゃならん。
今日の御理解から、いわば人の不信心を見てわが身までも不信心になる様なことがあってはならない。こういう行き方では力は受けられない。、こういう行き方にならなければかげが受けられない、徳が受けられないと分かったならば、その徳が受けられる、おかげが受けられると云う生き方をです、いよいよ身につけて行かねばならぬ。そこにです、例えばお供えは細めるな、決めるなと云うことも段々上さえ行くより外にないと云うことです。お参りでもそうです。信心もそうです。
もうこがしこ参りしよるけんよかちゅうこつじゃなか。どういうもっともっと限りなく信心が出来るような生き方の出来れる生き方をです、私は求めて信心させて頂かねばならんと思うですね。
どうぞ。